遠くから喧騒が聞こえる。はじめはぼんやりと、次第にはっきりと頭に飛び込んでくる。
「……っ」
頭が重い。
ゆっくりと目を開け、体を起こすとぼてっと何かが額から落ちた。少し離れたところに人垣が見える。たしか俺はあの輪のなかにいて、それで神官娘に殴られて……、それからどうなったんだ?
「ようやくお目覚めかい」
聞きなれた声に振り向くとお隣のおばちゃんが水の入った桶を抱え座っていた。太ももの上に落ちたタオルを返しながらゆっくりと周囲の様子を探る。なぜかさっきまで野次馬の中にいたおばちゃんたちが手桶やら箱やらを持ってあわただしく駆け回っている。ふっと血のにおいが鼻腔をくすぐる。
「な……」
よく見ると人垣の外には、さっきまで野次馬の中にいた人たちが腕や足を押さえて座り込んでいた。中には地面に倒れてうめいている人もいる。
「いったい何があったんだ」
「どうしたもこうしたもないよ」
手桶を片付けいなくなったおばちゃんの代わりに少し低めのソプラノの声が返ってくる。声の主は神官服を着た少女。さっきの神官娘が斜向かいのおじさんに腕に包帯を巻いていた。
「さっきの兵士たちのこと覚えてるでしょ」
「ああ」
「アスターが最初の三人を打ち倒したとたん、人垣を破ってあいつらの仲間が乱入してきたんだよ。腕力に物を言わせてね」
神官娘は時々駆け回るおばちゃんたちに指示を出しながら淡々と作業を続ける。どうやらかなり手馴れているらしい。
「おかげでこの有様ってわけ。はい、おしまい。ほかに痛むところは?」
どこから出てきたのか血のついた医療道具と思しきものを片付けながら、神官娘が尋ねる。
「こ、股間が……」
「股間?」
神官娘がきょとんとした顔で覗き込むと、おじさんは彼女の両手を取った。
「股間がうずく。君の手で俺のマグナムを優しく……」
……どす。
奥さん登場。あわれエロ親父は最後まで言い終わらないうちに度突き倒され、ずるずると引きずられて扉の向こうへ消えた。合掌。
状況も考えずにナンパして強制退去させられた斜向かいのおじさんのことを頭から振り払うと、人垣に囲まれて様子をうかがうことのできない店をちらりと見やった。
「で、今どうなってるんだ」
銀色に光る道具をトレーに片付ける手を休めると、神官娘も俺と同じ方向に目を向ける。
「膠着してる。あの人数相手だとさすがにアスターも楽勝ってわけにはいかないんじゃ……」
その言葉をさえぎるように、野次馬から悲鳴が上がる。だが、ここからではどうなっているのか様子を知ることはできない。
「くそっ」
俺ははき捨てるようにつぶやくと、人垣に向かって走り出していた。
まばらになった人垣を掻き分け最前列に出た瞬間、何かが一閃し、アスターの前に立ちはだかっていた男が地面に転がった。一拍遅れて後ろから切りかかろうとしていた男が崩れ落ちる。
さっきよりも遠巻きになった人垣のなかではすでに数人の男たちが地面にはいつくばっている。立っているやつらとあわせて総勢二十四人。手にはめいめいの武器を構え、アスターを取り囲んでいる。
アスターが足元に転がっていた男を蹴り飛ばす。そして少し乱れた息を整えるとわき腹に刺さった小刀を乱暴に引き抜いた。上着が見る見る血をすって赤くなる。
「人様んちの前で騒ぎを起こすたぁどういう了見だよ」
攻めあぐねているのか兵士たちがじりりと下がる。
「へっ、やっぱりだんまりかよ」
アスターが重心を落とし身構える。
「だったら全員捕まえて聞き出すまでだっ」
獣の咆哮。アスターが踏み込み、兵士が吹っ飛ぶ。一人、二人。包囲の輪が乱れる。
「……俺、要らないじゃん」
出て行くタイミングをつかめないまま、俺はぼそりとつぶやいた。
わき腹の傷のほかにも小さな傷はいくつかあるようだが、それでも兵士二十四人を相手に互角に渡り合っている。そうこうしている間にも、兵士が一人地面に倒れる。魔術も使わずこれだけの人数相手にするなんて、普通じゃない。こんなのを相手にしたのかと思うとぞっとする。
不意に鋭い魔力の発動を感じる。
くそ、ここにいるほかにも仲間がいたのか。しかもよりによって術士が。どんどん近づいてくる。でかい。ぞくりと鳥肌が立つ。
「間に合えっっ!!」
考えるより先に体が動く。叫び声とともに障壁展開。術の構築もめちゃくちゃのまま、ありったけの魔力を込める。三・二・一……。
どんという衝撃。続いてまばゆい光、あたりにとどろく轟音。衝撃とともに爆風が砂埃を舞い上げる。
「がっ……、げほっ……げほっ…………」
体が酸素を欲して胸が激しく上下する。
何度か激しく咳き込み、呼吸が落ち着くと、俺はうっすらと目を開けた。あたりには舞い上げられたほこりが漂い、あちこちから咳き込む声が聞こえてくるが、みんな無事そうだ。
「ブレイク?」
振り返ると、なみだ目で咳き込むアスターがいた。
「今の……、お前か」
「まあな」
今の爆風で兵士たちの注意がそれた隙に輪の中にに移動すると、ちらりとアスターのわき腹に目をやる。近くで見ると血に染まった服からのぞく傷口が痛々しい。頭がくらりとし、目をそらす。
「ど、どうせ助けんなら……、はあはあ……もっと静かに助けろ」
当の本人は傷なんて気にもしていないのか、荒い息を吐きながら叫ぶ。
「う、うるさい、こっちだってぎりぎりだ。助かっただけありがたいと……」
「アスターっ、左っ」
俺の言葉をさえぎり神官娘の叫び声があがる。とっさに振り返ると刀をふりかざした兵士の姿が飛び込む。視界が回る。倒れる兵士の姿を視界の端に捕らえたのもつかの間、世界が反転する。続いてどすという鈍い衝撃が背中を襲う。周囲から音が消えた。
次の瞬間、わっと言う歓声があがる。
「我等はセイト国第二近衛師団である。全員即刻武器を捨てよ。捨てぬ場合は敵意ありとみなす」
人垣を割って入ってきたのはセイト国の兵士服に身を包んだ兵士たち。その中でも一段と立派な鎧に身を包んだ兵士が、すっと手を上げる。篭手が太陽の光を反射する。
「総員確保」
張りのある低い声とともに腕がさっと振り下ろされた。
その後のセイト国の兵士たちの手際は鮮やかだった。あっという間に押し包むと、正体不明の兵士たちを取り押さえていく。
「すげえ……」
アスターがぼそりとつぶやく。
「……すげえのはいいんだけどな、いい加減どけよ」
俺の上で兵士たちにみとれているアスターに抗議の声を上げる。神官娘の叫び声が上がったとき、とっさにタックルされたらしい。
「あ、ああ。悪ぃ」
そういうとアスターは身を起こした。が、俺の上の重しは一向に軽くなる気配がない。
「?」
見上げるとアスターの情けなさそうな顔と視線がぶつかる。
「血ぃ流しすぎて動けねぇみたいだ」
「それ大丈夫なのかよ」
「あー、このくらいの怪我はいつものことだから問題ない」
「それはそれで問題あるだろ」
いつまでもこの格好でいるわけにも行かないので重りの下から這い出す。
「うう、重っ。まったくお前体重何キロあるんだよ」
とりあえず仰向けに寝かせ上着で傷口を縛る。神官娘を探すが人ごみにまぎれてしまい姿が見当たらない。
「いやお前が軽いだけだろ。俺より背高いくせに、片腕で支えられるなんて軽すぎだろ。飯ちゃんと食ってんのか?」
「ご飯は食べてるけど……。片腕ってなんだよ、おい!」
ふと脳裏に二週間前の出来事がよみがえる。渾身の一撃を放った俺は、意識を失って屋根から落ちて……。
「あのときか、あのときなんだな!」
相手が怪我をしているのも忘れ、アスターを揺さぶる。
「あううぅ、なんかぼーっとしてきた」
「うおおおい、返事をしろ」
さらに激しく揺さぶるが返事のかわりにうめき声を上げるだけ。なおも揺さぶり続けていると、がんという金属音とともに脳天に衝撃が走る。
「痛〜」
「けが人になにしてるのさ」
頭を抱える俺の上から冷ややかな声が降ってくる。見るとさっきの金属トレーを両手で構えた神官娘が仁王立ちをしていた。
「そういうものでひとを殴っちゃいけませんって習わなかったのかよ」
手加減なく殴られた後頭部を押さえ抗議の声をあげるが、彼女は声にもまして冷たい視線で俺をにらみつけたまま、ぴくりとも動かない。
「あのー……もしかして機嫌悪い、とか?」
恐る恐るたずねると少女が重い口を開く。
「そこどいて」
「は……?」
「治療のじゃまっていってるの、聞こえなかった?」
「あ、ああ」
氷点下の視線でにらまれあわてて場所を譲る。しばしの間傷を検分していた彼女は、耳元に何かをささやくとよたよたとアスターを抱えあげた。
「お、俺も手伝ったほうが……」
神官娘があわてて手を差し出した俺にぴしゃりと言い放つ。
「君の助けなんていらないっ!」
「でも、お前一人じゃどう考えても運ぶの無理じゃ……」
「アスターにさわらないで!」
「!」
大声で怒鳴られびくりと手を引っ込める。
「泥棒猫」
そうぼそりとつぶやくとそのままふらふらとした足取りで歩き出した。
……今泥棒猫っていわなかったか、おい。
「なんじゃそりゃああああっ」