静かな夜だ。春霞におぼろにかすむ月は西の空へと傾き、家々からもれる暖かい光もひとつまたひとつと消えていく。こんな時間に起きているのは、夜勤の衛兵にまだ飲み足りない呑み助たち、そして泥棒くらいなものだろう。観光都市というだけあってこの街の歓楽街は王都にもまけない華やかさがあり、その明かりは明け方近くまで消えることはない。今日も下界では男と女、欲望と金の駆け引きがあきることもなく繰り返されているに違いない。夜の街の明かりはそのままその街の豊かさでもあるのだ。しかし街を明るく照らす街灯もその光が届くのは大きな通りだけで、貧しい人々が暮らす路地にその恩恵が差し込むことはない。華やかな街の光と影。地面に張り付き人の波にもまれていると気がつかないが、上空から眺めると見えてくる風景もある。だからこうして街を空から眺めるのは嫌いじゃない。さすがに夜風は冷たいけれど、バタバタと上着のすそを踊らせる風の音が妙に心地いい。
下を見下ろすと人間が食玩みたいに見える。よく見るとそいつは空を見上げて騒いでいるみたいだ。おっと、危ない。いくら濃暗色の上着を着て闇にまぎれているからといっても、こんな大きな物体が空を飛んでたらさすがに見つかるよな。というわけで少し高度を上げるため背中の羽をはばたかせる。
俺たち魔族の特徴のひとつがこのこうもりみたいな羽だ。それ以外は普通の人間と変わらない外見をしているから羽を消していればよっぽどのことがない限り魔族だとばれることはない。ある程度の術士なら魔力の質で分かるけど、何もしなければ見て見ぬふりをするしな。誰だって自分の命は惜しいだろ。まあ中にはいろんな意味で例外もいるけれど、今のところは俺でも何とかできるやつらばっかりだったのはラッキーってやつかな。とはいえ、さすがにこの姿を見られたら衛兵プラス術士ご一行様に追い回されるのは必至だよな。そうしないとあちらさんが職務怠慢でまずいみたいだし。……さっきの人間、衛兵所なんかに駆け込んだりしないだろうな。まったく人間といい白翼族といい、生きにくい世の中だぜ。
何でこんな危険を冒してまで空を飛んでるかと言えば、それもこれも全部あのにっくき白翼族のせいだ。たまたまそこにいただけの俺を目が合っただけで追い掛け回すなんて一体どんな神経してるんだよ。おかげでせっかく王立図書館にもぐりこむために仕立てた服も今日買ったばかりの本もだめになったじゃないか。まだ読んでなかったんだぞ、あの本。この落とし前はきっちりつけてもらうからな。さっきだって街中で人外バトルなんかしたら迅速に衛兵さんが出動してきそうだったから避けてただけで別にびびっていたわけじゃ……、ごめんなさいうそつきました。正直な話、白翼族ってだけでパニックになって逃げてたけど、人って不思議なものでここまでしつこく追い掛け回されると逆に肝が据わってくるものらしい。あっはっは、俺を追い回したこと地獄の底まで後悔させてやる。
ここ数年ないくらいにおかしいテンションのまま、いまだに俺を探して地上を駆けずり回っているであろうあいつを探す。
……いた。
あれだけ白尽くめの服を着ているんだ、いくら日が落ちたってどこにいるか丸見えだ。まったく着ているやつのセンスを疑いたくなるような服だけど狩る側にまわってみればあれほどわかりやすい目印もないな。標的の姿を認めた俺はとんと軽い靴音を響かせ、手近な屋根の上に舞い降りた。
街灯ひとつない薄汚れた路地を一人の少年が走っている。しばらくその動きを視線で追っていると、いくつかの路地が交差して広場のようになっているところに出たところで、ようやくその歩みを止める。広場といってもきちんと舗装され整備されたようなものではなく、あちこちに遠目でも長年風雨にさらされてきたことがはっきりと分かるほどぼろぼろになった木箱や酒樽が朽ちるままに放置されている。中心に井戸があるところを見ると、このあたりの共同井戸といったところか。日のあるうちは近所のおばさんもとへ奥様たちが集まりたわいない話に花を咲かせているに違いないが、さすがにこんな夜更けには人の姿はない。おそらくこのあたりはこの街で貧民街と呼ばれる、かなり治安の悪い地域だろう。ここでなら多少騒いだところで、住民も衛兵も気にしたりはしないはずだ。つまりやるなら今しかない。
目をつぶると深呼吸をひとつする。すっと右の手のひらを上げると、一言一句ゆっくりと詠唱を始める。
これくらいの魔術なら詠唱なしでも発動できるけれど、これは俺なりの儀式みたいなもの、ここから戦闘モード開始ってわけ。それになにより詠唱したほうがかっこいいしな。
「大気にたゆたう風の元素よ…… 」
言葉を発するにしたがい、手のひらの前に淡い緑の光を放つ魔法円が姿を現す。風の元素を表す緑の光、俺が作り出した魔法円を中心に風の流れが変化する。
「……我が掌中に集まりて………… 」
手を握る動作にあわせ魔法円の中心に風が集まる。
「…………彼のものを切り裂く刃となれ 」
すっと腕を引くと集まった風が魔法円に吸い込まれる。魔法円の輝きが一段と増し、あたりの風が静まる。一拍置いて最後の言葉を紡ぐ。
「エアリアルカッターっ」
腕を突き出すと同時に魔法円が消滅、魔力を帯びた緑の光を放つ刃が標的に襲い掛かる。幾多もの風を切る音に気がつき後ろを振り返るがもう遅い。地面がえぐられる音に続き、もうもうと舞う砂煙に標的の姿が消える。
音に驚いた犬たちの遠吠えも徐々におさまり、夜の街は再び静けさを取り戻す。さっきまでぼんやりと浮かんでいた月もすっかり沈み、空には星たちが弱弱しい光を放つのみだ。広場一面をすっぽりと覆い隠した砂煙は俺の立っている二階の屋根のあたりまで立ち上り、今しがた使われた魔術の威力を物語っていた。
俺は魔術を使い高ぶった精神を静めるかのように、冷たい夜気を胸に吸い込むと小さくつぶやいた。
「……ジ・エンド」
ふわりとほおをなでる風があたりの砂煙を吹き散らし、徐々に視界が開けていく。だが、そこには俺の予想を裏切る現実が待っていた。
「どういう……ことだよ」
肝心の標的の姿がどこにもない。たしかに直撃を受けても即死はしない程度に威力は抑えたけれど、それでも一部でも当たればそれなりの傷にはなるし、直撃なら戦闘不能くらいにはなる計算だった。魔法障壁を使ったにしろ転移魔法を使ったにしろ、少なくてもあの攻撃から完全に逃げおおせるだけの時間などなかったはずだ。それが痕跡も残さずきれいさっぱり目の前から消えるなんてどんな手を使ったんだ。
ふいに俺のほおを何かがつと伝う。ぬぐった指をこすり合わせると、それは粘度が高く、そして赤黒い。
「血……?」
自分の無意識の声に、思わずはっとなる。言葉のあやならともかく、本当に血の雨が降ったなんて話俺の百と三十一年の人生の中でも聞いたことがない。
バタバタという服が風にたなびく音が頭上に迫る。魔法障壁展開。同時に金属を岩に思いっきりこすったような音とともにあたりにまぶしい閃光が走る。攻撃を加えられ光り続ける障壁越しに確認すると、俺の脳天をめがけ垂直に突き立てられた切っ先が見えた。あと少し気がつくのが遅かったらただではすまなかっただろう。障壁に阻まれたそれはちっという小さな舌打ちをすると、ばさりと魔族のものとは異なるはばたきの音を立てた。
どさりと重厚な音を立て白いものが降ってきたと思ったのもつかの間、それは屋根を蹴って俺に向かって突進してくる。その距離三メートル弱、再び魔法障壁を展開するが間に合わない。キンという金属質な音に続き、左わき腹に強烈な熱を感じる。ひゅんという風を切る音。襲撃者と視線が合う。その目に宿るのは敵を排除するという一念を含んだ冷酷な殺気。一呼吸遅れて激しい痛みが走る。
目の前に迫るそいつは、俺のわき腹を切り裂いた短めの槍を横に払うと、ステップを踏んで適当な距離をとる。悠然と構えられた得物は全体が金属でできているらしく闇の中でも不気味な存在感を誇示していた。
殺されるっ。
さっきの裏路地のときとは比べ物にならないほどの、死の恐怖が全身を襲う。痛みと恐怖で叫びたくなる衝動を必死に押し込めると詠唱なしで魔術を構築する。二人の間にあった障壁が風の魔法円へと変化、消滅とともに無防備となった胸の真ん中へと緑の光の玉を叩き込む。肉を打つ衝撃音と同時に相手が後方にふっとぶ。
「……やった…………か」
声がかすれている。急激な魔力の消耗で心臓の鼓動が早まり、呼吸が苦しい。
「っ……ぐはっ…………」
とたんに忘れかけていた腹部の痛みがよみがえる。その場にしゃがみこみ傷口を押さえるとどろりとした生温かい血の感触が手の甲を伝う。さっきから流れ続けている血は、ズボンをぬらしひざのあたりまでの布が肌にまとわりついている。予想以上に傷は深そうだが、それよりもかなりの量の魔力を急激に消費したことによる疲労のほうが深刻だ。二つの魔法をばらばらに使うのと、同じものを同時に使うのでは魔力の消費量は圧倒的に後者のほうが多くなる。おまけにその二つともがかなりいい加減な術式で発動させたものだからその消費量は半端じゃない。
大体、他の生物の精気を吸い取り自分の魔力に還元する能力からも分かるが魔族は魔力と生命力は直結している。つまり魔族にとって体内の魔力を使い切るということは、死を意味する。あれで仕留められたとは思わないけれど、これ以上の戦闘は命に関る。俺だってまだ死にたく……
どすという衝撃が背後から襲う。
「な……っ」
肩越しに後ろを振り返ろうとすると、右肩に深々と突き刺さった槍が視界に入る。しかも貫通しているみたいだ。だが、何が起きたのかという混乱のほうが先にたちなぜか痛みは感じない。が、続いてそいつは俺のしゃがんだままの背中にひざを乗せ体重を掛けると、右肩に突き刺した槍を無造作に引き抜いた。とたんに痛みというより衝撃、痛覚の限界を超えたのではと思うほどの痛みが全身を襲い、絶叫を上げる。
身をよじり身を引き裂かれる痛みに耐えていると、今度は横からの攻撃。よける間もなく蹴り倒される。
「いいカッコだな」
上から冷たい声が降ってくる。背中を踏みつけられたまま視線だけを泳がせると、俺を見下ろす氷の視線と目があう。
「さっきのはちょっくら効いたけどな、この程度で俺に勝とうなんざ千年早いんだよ」
わき腹を蹴られそのまま無様に地面を転がる。痛みのせいか、出血のせいかそれとも魔力の消費のせいか、さっきから視界がぼやけて全身がだるい。
「おら、立てよ」
荒い息を立てながら地面に横たわっていると、今度は体を無理やり引き起こされる。
「いやに真剣に逃げるからあやしいとは思ったけど、まさかこんなところで悪魔と会うなんてな。こんなところで何してたんだよ、え」
「……っ…………」
胸倉をつかむ手にされに力が加わり、痛みと息苦しさでさらに顔がゆがむ。
「ま、んなこたどうでもいいか。どうせてめえはここで死ぬんだからな」
そう、このままならどっちにしたって命はない。だったら……
「てめえの相手もそろそろ飽きたな」
乱暴に突き放された俺は、よろめき足がもつれるが何とか屋根の端ぎりぎりのところで踏みとどまる。そいつは自由になった両手で槍を構えすっと刃先を向けた。俺はその切っ先をにらみ返す。
「じゃあな」
死刑宣告とともにゆっくりと体を沈め、屋根を蹴ると俺との距離を縮めた。その瞬間、二人の間に魔法円が出現、相手の動きがぴたりと止まる。その魔法円は月の光の消えた闇の中でゆらゆらと白くあやしい光を放っている。しばしの均衡。だがこれも長くは続かない。槍を構えなおすのと同時に光はいっそう強くなり、数多の光線がいっせいに襲い掛かる。
ブラッディレイ。今現在俺が使える最強の攻撃用魔術だ。