第1話-01

 ここメイキは、イースト大陸最大の王国セイトの最北端に位置する街だ。この街を過ぎると、北西には比較的なだらかな山地をはさんでヨウ国の国境、北東に広がる森を抜けるとカグラ国との国境にたどり着く。交通の要所ということもあるけれど、セイトの王都レイキと比べ高地にあるメイキは、夏も比較的涼しく景色も抜群とそれなりに観光客が集まるにぎやかな街だ。この街に限らず、貿易港や大きな街道沿いにできた街は、各国の首都と比べても人・物・情報がそん色なく手に入る。いや、情報に関して言うなら首都よりも早いかもしれない。しかも、術士もほとんどいないし、よそ者に対しても比較的おおらかだしと、俺みたいなのにとっては願ったりかなったりな場所だったりする。
 この街の中でも俺のお気に入りは、街のすぐ西側にあるきらめきの湖を一望できる天使の丘だ。名前はちょっといただけないけれど、景色はいいし観光シーズンから外れたこの時期は人も来なくて静かないい場所だから、本を読むのにはちょうどいい。だから天使の丘の木陰でのんびりと本を読むのが最近のマイブーム。特に今日は、ぽかぽかと心地よく、時々吹き抜けていく風も二、三週間前の冷たさはない。ああ、春だなあ。ふわふわとした春の気だるい陽気に包まれて、だんだん眠たくなってくる。このまま昼寝でもしようかな。

 ふと俺の背中に、ぞわりと悪寒のような感覚が走る。

 空気が変わった……?
 相変わらずあたりはうららかな春の陽気に包まれている。でも、あたりの雰囲気はさっきまでと明らかに違う。魔術を扱う者にしか分からない場の変化。誰かが転移魔法でも使おうとしているのか、びりびりと俺の周りの空間も反応している。いや、かなり高位の転移魔法なのかこの丘の空間全体がひずんでいる。このレベルの魔術を使うとなると二つ名持ちの術士か、もしくは人外……。って、冷静に分析している場合じゃない、こんなところに突っ立ってたら術に巻き込まれる。もはや術士じゃなくても異変に気がつくほどゆがみにゆがんだ空間の中から、なんとか魔術の中心域を割り出すと、あわてて木の陰に身を隠す。本当は転移魔法でこの場から逃げたいけれど、空間がゆがんだここで魔術なんて使ったあかつきにはどこにとばされるか分かったものじゃない。
 とりあえず身の安全を確保して木と木の間から丘の様子をうかがうと、ちょうど白く光り輝く巨大な魔法円が出現したところだった。あの大きさは明らかに普通の転移魔法じゃない、それに見たことのない術式だな。位置はちょうどさっき割り出した辺り、おお、俺ってばなかなかやるじゃん。観察することしばし、こことどこか転送前の空間のゆらめきが同期し魔術が発動、丘の魔法円の最内円がまばゆい光の柱に包まれる。その光の柱は昼間にもかかわらず青白く不自然に輝き強烈な存在感を示していた。
 でもそれも一瞬のことで、徐々に光の柱が消えていくと中の物体のシルエットが浮かび上がった。やがてその魔法円はその役目を終え、ゆらゆらと空気へと溶けていく。

 代わりに円の中心だったところにいたのは、一人の少年。見た目の年は俺と変わらない。ただしごく普通の少年というには、いろいろと規格外だ。
 まず、その格好。神官なんかが好んで着る白を基調としたすねまで丈のあるローブを着ているくせに、袖はひじの上まで腕まくりをしていて、そこから突き出ている腕が妙に太い。よく言えば偉丈夫、平たく言えば兄貴系のそいつの体格と神官服という組み合わせはミスマッチのはずだが、長年着込んでいるのかやたらとフィットしている。まあ、服の好みは人それぞれだし、武官や兵士をめざすようなやつの中にはもっと立派な体つきをしているやつなんかもざらにいるから、ここはよしとしよう。
 でも、水色の髪にそれよりも少し深い色をした同系色の瞳というのはなかなか人間離れした配色だと思うぞ。それに身にまとっている魔力の質が明らかに違う。ある程度の術士ならはっきりと分かるくらい質が異なるし、そもそも俺は他人の魔力にかなり敏感なほうだから間違いない。そして極め付けが背中に生えているモノだ。そいつは背中に少し灰色の羽の混じった白い翼を生やしている。百歩譲ったって背中に翼の生えた人間なんていない。こんな特徴を持つ種族はこの世にただ一種、白翼族だけだ。

 うわあ、最悪。そりゃ実在の生き物だからいたっておかしくないけれどさ、「いずれの御時にか、天よりの使者舞い降りぬ」って伝説が丘の名前の由来になる程度にはレアな存在のはずだろ。それが、何でこんなところにいるんだよ。天使の丘に白翼族なんてはまりすぎだろ。目の前にいるのは一般的な白翼族像から相当遠いけど。なんだか嫌な予感がすると、俺の中で何かが盛んに警鐘を鳴らしている。触らぬ神にたたりなし。ここはさっさと立ち去るに限る、というわけでそそくさと立ち去ろうと一歩後ずさった瞬間、俺の足元でぱきんと小枝が折れる音がする。
 ……ぱきん?
 もしかして気がつかれたか。おそるおそる丘のほうを見ると、こっちを凝視している少年とばっちり視線がぶつかる。

 そして……、二人の間の空気が凍りついた。

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 あーもう、俺が何したっていうんだよ。
 どこかの路地の小汚い壁に背中を預け地面にへたり込んだ俺はぜいぜいと荒い息を吐きながら、今日何度目になるか分からない言葉を頭の中で繰り返す。人一人がようやくすれ違えるほどの幅しかないこの路地は、昨日まで降り続いていたらしい雨のせいであちこちに水溜りが残り泥でぬかるんでいるし、酒場の裏手なのかあちこちに壊れた酒樽と酒瓶の破片が散らばり一帯にアルコールの強烈なにおいが立ち込めている。さっきから頭がくらくらするのは絶対に疲労のせいだけじゃないと思う。
 俺は今、ちょっとした気の迷いが原因で、かなり厄介なやつに追いかけられている。白翼族――、つまり俺たち魔族の天敵だ。
 魔族と白翼族は恐ろしく仲が悪い。どのくらい悪いかと言うと、『「魔族と白翼族、二人の男が乗った船が嵐で沈んだんだとよ」「そりゃ災難だな」「なーに、片方の死因が変わっただけさ」』なんていうブラックジョークがあるくらいだ。しかも半分事実というあたりがさらにやばい。どこかの国の言葉で言うところの、不倶戴天の敵、ってやつ、呉越同舟なんて話はありえない。たしかにもともと仲がよかったとはいえないが、昔はここまでひどくはなかったらしい。それがなぜここまで険悪になったのか。事の起こりは五百年ほど前にさかのぼる。

 魔族には他の種族にはないちょっと特殊な能力がある。他の生物の精気を吸い取り自分の魔力に還元するってやつだ。魔術による戦いを得意とする魔族にとって、これほどありがたい能力はない。もちろん大量の精気を奪われると生物ってやつは万物共通で死ぬ。これが原因で魔族はかなり忌み嫌われている。でも、魔族だって世間で言われているほどは冷酷でもバカでもない。普通は相手が気を失う程度でやめておくし、精気なんて生命維持に絶対必要なんてものじゃないから、一度も他から奪わずに一生を終えるやつのほうが多数派だ。
 だけどその頃、一方的に狩られるだけの獲物じゃあおもしろくないという一部のやつらが、人間狩りを始めた。その時代の魔界は文化が円熟し技術革新も起こらず、経済の発達の緩やかな停滞期が長く続いたせいで、社会全体が倦んでいたんだろうな、一部の若者の間で始まった人間狩りは、退屈な日常に刺激を求めたそのほかの魔族たちの間でもあっと一大ブームとなった。もともと人間も捕食対象だったけれど、こういう風に集中してねらわれてはひとたまりもない。魔族と人間じゃあ基本スペックが違うんだから当たり前だな。有効な対抗手段を打ち出せなかった人間たちは、人口が減少し始めた。
 ここで出てきたのが白翼族。何を思ったか、やつらは魔族の首脳陣に警告してきた。「我々と同じように高い知能と文化を持つ人間をみだりに殺すのは人道的観点から言ってもよろしくない。即刻やめられたし」ってな。魔族側は、「人間だって狩りは紳士のスポーツだとかぬかして食べもしない生き物を殺しているんだ、人間だけが特別って言うのはおかしい。そもそも、お前らに迷惑をかけてないんだからいいだろ」と言って相手にしなかった。ま、当然だろうな。で、話し合いの席さえ設けられず互いの意見は平行線、その間にも人間狩りは続く、というか警告に刺激され狩りはただの殺戮ゲームへと変わり状況はますます悪化した。
 そしてとうとう業を煮やした白翼族が、人間狩りを行っている魔族の抹殺という強硬手段に出た。もちろんこっちだって、はいそうですかなんて黙って殺されるわけにはいかない。小さな衝突から始まった白翼族の粛清はいつのまにか報復合戦となり、あっという間に人間そっちのけで戦争になった。これが世に言う『天魔戦争』ってやつだ。魔族と白翼族の戦力はほぼ互角。魔界と天界それぞれの威信をかけた天魔戦争は長期化するに従い泥沼の様相を呈した。
 もっとも四十年続いたこの戦争だったけれど、終わりはあっけないものだった。それというのも、お互いはっと気がついたときには、双方ともに人口が半分以下になり、文明どころか種の存続そのものが危ないほどに疲弊していて、とてもじゃないが戦争なんてやっている場合じゃなくなっていた。こうしてどちらからともなく停戦を持ちかけ現代に至るってわけだ。
 だから、魔族と白翼族が今でも仲が悪いのも不思議じゃないし、俺だって白翼族のやつなんかと仲良くなりたいとも思っていない。が、いくらなんでも何もしてない俺を目が合っていきなり追い掛け回すなんてあんまりだ。自分で言うのもなんだけど、俺は至極善良な魔族だぞ。そりゃ俺だって人間の精気を奪ったのなんて一度や二度じゃないけど一応同意の上だぞ。相手の要求するものは命以外は何でも渡すって賭けで勝ったから報酬としてもらっただけだしな。う、まあ賭けに勝つためにちょっとばかり小細工もしたけどさ、勝ちは勝ちだろ。とにかく、俺にやましいところはまったく……あんまりない。もしタイムスリップできるなら、魔族に警告をしてきた白翼族の偽善者をどっちが非人道的なんだと小一時間問い詰めてやりたいぜ。

 あれからどのくらいたったのだろう。苦しかった呼吸もいまはおさまっている。あたりを見回すが、さっきよりも暗くなった路地には人の姿は見えず相変わらず水溜りと壊れた酒樽と酒瓶の破片が散らばっているだけだ。変化といえば時々ねずみが足元を通り過ぎていくくらいだけど、それだって今まで余裕がなくて俺が気がつかなかっただけだ。時刻を知りたくなり上を見上げると、細長く切り取られた空は茜色に染まり、上限の月が淡い光を放ち始めていた。
「あーあ、もうすぐ夜じゃないか」
 誰もいない虚空につぶやく。ただし口から紡ぎだされたのはこの国で使われている言葉ではなく、魔界の言葉だ。ここの言葉は読み書きにはまったく不自由しないくらいには使えるけど、何か考えをまとめるときはやっぱりこっちのほうがやりやすい。それになんだかんだ言っても慣れ親しんだ言葉って落ち着くしな。
「まあいいか。このまま夜までここで……」
「よう」
 突如降ってきた声にあわてて顔を上げると、いつの間に目の前にあらわれたのかヤンキー座りの男がこっちを見ている。さすがに背中の翼は消しているけど、こんなインパクトのあるやつ忘れたくてもそうそう忘れられるものじゃない。
「うぎゃあああああっ!」
 思わず悲鳴。うう、耳がきーんとする。こういうところって音響効果がいいんだな、ひとつ勉強になったぜ。見るとそいつも耳が痛いのだろう、こっちの様子など気にする余裕もなく耳を押さえてしゃがみこんでいる。逃げるなら今だ。だがくるりと回れ右をすると同時に後ろから手を引っ張られて前に進む気満々だった俺の体はつんのってしまう。
「どこいくんだよ」
 見るとそいつが地面にしゃがんだ姿勢のまま俺の左手首をがっしりとつかんでいる。さらに驚きあわてている俺と眼が合ったとたん、立ち上がり意外と落ち着いた調子で話しかけてきた。しかし何を言っているかまったく分からない。それもそのはず魔界と人間界、天界では言語が違うのだ。魔族で白翼族の言葉が分かるのなんてよっぽどのインテリか変人のどっちかで、ごく一般人の俺が分かるわけがない。分からないけど俺にプラスになるようなことを言ってないに決まっている。
 振りほどこうと必死に抵抗してみるけど、一向に開放される気配はない。さらに抵抗を続けていると不意に手首の拘束が消えた。胸を押される感覚に続き、どすという鈍い衝撃が背中を襲う。痛みと衝撃でうめきながら、ああ俺は突き飛ばされたのかなどとぼんやりと考えていると、今度は視界を白い物体が横切った。目をつぶると同時に壁がふるえ、「黙れ」と怒気を含んだ声が飛ぶ。恐る恐る目を開くと、俺のすぐ横の壁に右手のこぶしを打ち込んだままの姿勢で立っているそいつの姿が目に入った。ぐっと俺の顔に近づいた顔は少しいらついているようにも見える。右手をゆっくりと離すと壁からぱらぱらと小さな破片が落ちていく。いくらぼろぼろになっているとはいえ、素手で石の壁に亀裂を入れるなんて普通じゃない。今のは威嚇だったからよかったようなもののあんなパンチが飛んできたら絶対によけられない。そう思ったとたんにひざの力が抜けて、ずるずると座り込んでしまった。ふと見上げると俺のほうへとすっと手が伸びてくる……
 やられるっ。
 そう感じた瞬間、俺は目をぎゅっとつぶると無意識のうちに心臓を守るように本を抱え込んでいた。
 ところが次の衝撃はいつまでたってもこない。そっと片目を開けると、すぐ目の前にいるはずのそいつは壁に寄りかかりながら上をじっと見ていた。腕組みをしているところを見ると何か考えているのかもしれないが、あたりが暗くてその表情は読み取れない。しばらく座り込んだ姿勢のまま見ていたが考え事に夢中になっているのか俺のことなど見向きもしない。
 逃げるなら今しかない。俺は背中を壁からそっと離した。
「逃げんなよ」
 だがタイミングよくかけられた言葉に体が凍りつく。
 静かだがはっきりと俺をけん制すると、さらにそいつは片ひざを立てて座り、視線を俺と同じ高さにするとぐっと体を寄せて、
「おとなしくしてれば、手荒なことはしないぜ」
と低い声でささやいた。今までずっと天界の言葉で話しかけられていたせいか、人間界の言葉に思わず警戒心が緩み、へえこいつ人間の言葉は話せるらしいななどとのんきな感想を抱いたりする。少し態度を軟化させた俺を見ると、なぜかやわらかい表情になりそっと手を伸ばしてきた。とたんにさっきの死の予感が俺の頭によみがえる。父さん母さん、親不孝な俺を許してください。俺は今日、この遠い異界の地で露となって消えるかもしれません。
「ってまだ死ねるかっ!!」
 多少冷静さを取り戻していた俺は、自分の中に渦巻く不吉な想像を吹っ切るかのように雄たけびをあげた。だが突然の叫び声にそいつは飛びのきそのまま一瞬動きが固まってしまう。それが命取りだった。俺が振り上げた本はあごをかすめ虚空を切った。返す勢いで右前頭部におもいっきり振り下ろす。最初の一撃で不意をつかれたそいつは続く攻撃の直撃を避けられずに、どすという鈍い音を立てあっさりと地面に倒れた。
 俺はじりじりと後ずさりながら軽く息を整えた。ゆっくりと吸い込んだ空気には強烈なアルコールのにおいのほかに、かすかに血のにおいが混じっている。少し離れて今しがた殴り倒した相手の様子をうかがうが気絶でもしているのかぴくりとも動かない。

 ふうと思わず安堵の声が漏れる。
 手にしていた本を見ると角にべっとりと相手の血がついていた。ただの本とはいえ、魔術を使えば殺傷能力のある凶器になる。魔術は使いようとはよく言ったものだな。
 相手に一瞥をくれ現場を離れる俺の耳に、ううとうめき声が入ってくる。ぎょっとして振り返ると、額を押さえながらよろよろと起き上がりつつある人影が目に入る。冗談だろ、鈍器で頭おもいっきり殴られて立ち上がってくるなんてどんな化け物だよ。そうこうしている間にもそいつは起き上がってくる。あわてて走り出す俺。

 うう、なんかすごいのに関ってしまった気が……。
 あのとき天使の丘なんかに行かなければこんなことには。うらむぞ、自分。

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